Fuculty Corner

ご退職の先生から

長い間、理工学部の発展にご尽力された先生方からメッセージをいただきました。

    2005年3月退職教員一覧

    学科 氏名 資格
    応用化学科 平田 彰 教授
    物質開発工学科 宇田応之 教授
    経営システム工学科 齋藤むら子 教授
    応用物理学科 千葉明夫 教授
    応用物理学科 久村富持 教授
    数理科学科 小島清史 教授
    化学科 高橋博彰 教授
    電気・情報生命工学科 内山明彦 教授
    コンピュータ・ネットワーク工学科 二村良彦 教授
    複合領域 調 佳智雄 教授



たった一度だけの舞台

教授 応用化学科
平田 彰
HIRATA, Akira

昭和28年4月,福島県は会津若松市から憧れの早稲田大学の理工学部に入学を許可されて以来52年,今僕はその早稲田を卒業し,第3の人生をまさに歩むべく,如何に生きるべきかを真摯に考えているところです。僕にとっての第一の人生は青春の学び舎:早稲田での10年間の学生生活,第2の人生は昭和38年に助手として奉職させて戴いて以来42年間に亘る教員生活です。その意味で,新入生・卒業生の皆さんも僕と同じ視点で今まさにそれぞれの人生を歩まれようとしておられるわけです。

早稲田大学に入って良かったのかどうか・その会社に入って良かったのかどうか。結論を急いではいけないと思います。それは皆さんがこれからどうゆう生き方をされるか,によって決まると思うからです。好きだからする・嫌いだからしない,ではなく,世の為人の為にお役に立てるには何をどう為さねばならないか,それを真摯に考えながら一生懸命実行して生きて行かれれば,好きでないことでも必ずや好きになれて,ああ,あの時の人生は本当に良かった!と思える日が必ず来るものと信じております。

人生はたった一度だけの舞台です。心豊かな,悔いの無い,充実した,すばらしい人生を歩まれますよう,蔭ながらお祈り申し上げております。



大久保キャンパスを去るに当たって

教授 経営システム工学科
齋藤むら子
SAITO, Murako

私は科学技術庁、外資系企業、国立大学、私立大学と職域を遍歴してきました。早稲田大学においては貴重な異分野体験をさせていただき多くを学びました。異分野間の調整は仮想上の議論よりも現実の場でその出来事を直視しながら議論するほうがスムースに進行するものです。

専門領域間の連携をとる際に異分野への新規参入者の意見が不当に吸収されてしまい、体勢を占める特定領域の習慣に従うことを余儀なくされることが多いのですが、これは得策ではありません。人間社会におけるさまざまな損益の検証には、エビデンスにエンドーズされる科学的技法、また、一方で社会におけるさまざまな問題状況に対してローカルニーズを充実させる社会技術的接近や方略があります。

後者は異なる文化的背景を有する人々の問題状況の読みや情報レトリックを尊重して、問題状況の只中にいる人、即ち当事者の改善目標を達成できるように支援する技術や方法論です。若い研究者や学生諸君が両方略を駆使して快適なコラボレイション活動ができるよう願っています。



忘れえぬ言葉。「進取の精神」「Boys, Be ambitious」

教授 応用物理学科
千葉明夫
CHIBA, Akio

国立大学で学び、研究活動をしていた私が、思いもかけず、早稲田大学の教員に迎えられてから35年があっという間に経ってしまった。反省すべき多くの事を残してしまったが、ご容赦を願いたい。

早稲田に来て、すぐ気付いたことは、学生の能力の高さ、スケールの大きさ、それと先生方の自由で、闊達なことであった。他大学出身の私を大事にしてくれた沢山の先生方にお会いできたこと、技術職員の皆さんの献身的な協力を頂いたことも忘れがたいことである。また、私の研究室の多数の出身者が国内ばかりか、国際的にも高い評価を得、また重要な地位を得て活躍しているという、素晴らしいお土産を頂いて早稲田を去ることを嬉しく思っている。

早稲田に来て、学生の多さと、校庭や研究室の狭さには驚いたが、最大のショックは、高額な授業料を学生が払い、給料がそれによって賄われていることを知ったことである。当時、国立大学の教職員は、給料や研究費を税金で賄うのは当然であると考えていた。国立大学の独立法人化など状況は変化しているが、国際的に見ても、なお学生負担の軽減が図られるべきと思う。世相のためか、スケールの小さな学生が増えていることが気になる。

全精力を傾けて学問、研究やスポーツなどに取り組むことができるのが学生の特権で、その時に培われた能力や気力がその人間の資産となるものと思う。早稲田大学はそれを助ける能力が非常に高い大学であることを実感している。理工学部のますますのご発展を願っています。



優れた学生の集まる早大へ

教授 応用物理学科
久村 富持
Hisamura,Tomiji

高校を卒業して早大入学のために18歳で上京してから、すでに半世紀余りが過ぎました。当時理工学部は大隈講堂などのある本部キャンパスにあり、私にはそこは学生時代から専任講師時代までを過ごした「第2の故郷」に思えます。

一方、1965年前後にかけて移転してきた射撃場跡のこの大久保キャンパスは、当初無機的で殺風景なものでしたが、その後18階の51号舘を含め次々と校舎が新築され、学生数の増加も伴って、ときには「大久保工大」と揶揄されるまでになりました。しかし、規模だけでなくIT関係を含む教育面や研究面も充実してきて、COEに選ばれるまでになったことは喜ばしいことです。

その一因には、「広範囲から精選された教員」と「学生の質の良さ」があると思います。特に、優れた素質をもった学生の存在は、教育・研究面のポテンシャルを支える要因と思います。これからも、優秀な学生が志願したくなるような大学であって欲しいと願っています。



微積教師としての感想

教授 数理科学科
小島 清史
KOJIMA, Kiyofumi

私は1969年4月に一般教育の数学担当教員として理工学部に戻って来ましたが、1971年3月に、それまでの数学科の教員と一般教育の数学担当教員とが合同して新しい数学科が発足して以来、数学科(1998年に数理科学科に名称変更)の教員として今日まで過ごして来ました。

その結果として、私は数学科の学生を除いた大多数の学生とは、基礎数学教育の講義を通じてつき合ってまいりました。この講義の目標は、数学に対する理解を深めて計算力を向上させる事であるのは勿論ですが、もう一つの大切な目標は数学の論証を通じて学生に論理的思考方法を身に付けさせる事であります。私は、講義内容が難解になる事は重々承知の上で、証明を中心に据えた旧態依然たる講義様式を一貫して採用してきましたが、これが上に述べた目標を達成するための最良の道の一つである事を確信していたからです。

しかしながら、多くの学生がすぐに結果の出る物事にのみ関心を持つ傾向が近年ますます強まり、じっくりとものを考える学生の比率が減少の一途をたどっている思われる現象は残念でなりません。しかし、これに対する有効な対策が現状のままでは私には見つけられなかったのも事実で、これが、私が退職を決意した要員の一つでもあります。

最後になりましたが、学生諸君が数学的素養に基づいた基礎を身に付けた上で、それぞれの専門分野で活躍されることを期待します。



オンワード

教授 電気・情報生命工学科
内山 明彦
UCHIYAMA, Akihiko

「オンワード」と云う言葉がある。これは社名にも使用されているが、私の好きな英語の形容詞である。意味は「前進的」であるが、早稲田大学を卒業してから現在まで40年以上にわたり、後ろを顧みずに来たように思う。1960年に学部を出て東京大学の助手に推薦していただき、約2年間応用物理学科に在職した。

この間に医学部から飲み込み可能なカプセル型の消化管計測機器の開発依頼があり、当時は超小型電池を入手できなかったために体外から電磁エネルギを与える無電池方式のものを開発した。これはエコーカプセルと名付けられ、私の研究分野を決定した。当時はまだ医用電子工学関係の学会も用語も殆ど無かった。また、早稲田大学に戻ってからは、医学部が無いのに医療関係の研究をしても無駄であるとも云われた。しかし、心臓ペースメーカの製作をして臨床に用いるなど、医科系の機関との共同研究が増えて現在まで進んで来てしまった。今後は新規性よりも広く役立つことを考慮した仕事を行いたいと思っている。

最後に長年お世話になった早稲田大学と皆様のご発展を心からお祈り致します。



思い出――二つの校歌(応援歌)

教授 複合領域
調 佳智雄
SHIRABE, Kachio

28年前、今は亡き伊東英先生が文学部から理工学部に移籍するに当たって、私も一緒ならという条件をつけられた。ここまで見込まれては、私も承知するほかない。が、当時の私は敵地に乗り込む心境だったらしく、学生時代ろくに口にしたこともない「若き血」をふとハミングしている自分に気が付くことがあった。しかし、いざ理工学部に来てみると、そんなことは一度もなかった。居心地がいいのだ。

学生との関係もそうだった。以前はわれわれ語学の教員は一年生のクラス担任をしたものだったが、ある年私がテニスでアキレス腱を切り、2,3週間後に松葉杖をついて教室に出ると、なんと四十半ばの私が「ゲートボールで骨折」したことになっていた。私が怪我と休講を知らせたクラス委員の仕業だった、と思う。そして、そのクラスの最後のコンパでは、「都の西北」ばかりではなく、「若き血」も歌ってくれた。

そこで私は、赴任早々から、退職するときはこの二つの校歌(応援歌)の話を披露して、今度生まれ変わったらぜひ学生としても「都の西北」を歌いたい、と締めくくろうと思い定めていた。だが、近頃少々雲行きが怪しくなってきた。将来理工学部にフランス語の教師の居場所があるかどうか、それどころか早稲田に文学部が存在するかどうかさえ怪しくなってきたのだ。そこで、今は、生まれ変わってから考えることにしよう、と思っている。


Copyright (C) 2005 Waseda University. 早稲田大学 理工学部/大学院理工学研究科